ポリヴェーガル理論
ポリヴェーガル理論は、私たちの自律神経系、特に副交感神経が「腹側迷走神経複合体」と「背側迷走神経複合体」の二つの経路を持つことを示します。これにより、人はリラックスして社会的に関わる際は腹側迷走神経が働き、ストレスや危険を感じると交感神経や背側迷走神経が働いて「闘争・逃走」あるいは「凍りつき」反応を示すと理解できます。この理論は、ストレス対処と社会的つながりの理解に役立ちます。
場面緘黙症は、この理論でいう「凍りつき反応」の一種です。学校などの特定の環境で、感情や外部刺激を適切に認識できない場合、前頭前野の働きが弱く、社会交流システムが未発達なために「耐性の窓」が狭く、外部刺激を適切に処理できません。この時、会話や行動を一時的にシャットダウンする「凍りつき」が起こります。これは、過度の覚醒状態を抑え、他者との交流で生じる身体感覚を一時的に遮断することで、恐怖を感じずにその環境に適応しようとする生存戦略なのです。
パニック障害と場面緘黙症
パニック障害は、突然の動悸や息苦しさ、めまいといった激しい身体症状と共に、死の恐怖に襲われるパニック発作を繰り返す病気です。この発作への「予期不安」や回避行動が特徴です。
パニック障害と場面緘黙症には、共通する自己防衛メカニズムが見られます。どちらの障害も、脳の扁桃体が過剰に活性化し、危険がない状況でも誤って強い恐怖信号を発します。パニック障害では、この誤信号が「闘争・逃走反応」に近い身体的なパニック発作を引き起こす一方、場面緘黙症では特定の社会状況を危険と認識し、「凍りつき反応」として声が出せない、体が固まるといった行動抑制を通じて自己を防衛します。
両者ともに、自律神経系の交感神経が過剰に活性化し、身体が過覚醒状態に陥りやすく、その高まった覚醒状態を適切に調整する能力が低下しています。また、自身の身体内部の感覚(動悸や発汗など)に過敏になり、それを「危険なもの」と誤って解釈し、強い不安や恐怖を伴う状況や刺激を避ける回避行動をとることで自己を守ろうとします。このように、両障害は身体本来の自己防衛システムが過剰に、あるいは誤った状況で発動するという点で共通しており、それぞれ異なる形ではあるものの、行動の抑制や回避という自己防衛戦略をとるのです。
場面緘黙症の生存戦略とトレードオフ
場面緘黙症が選択する「凍りつき」という生存戦略は、目先の恐怖や不安を回避できる一方で、大きなトレードオフ(代償)を伴います。
この戦略により、社会交流の機会を失い孤立が深まります。友人関係、学業、仕事、恋愛といった人生の重要な経験の機会が奪われることになります。また、身体感覚と感情の結びつきが不十分となり、自分の感情を認識・表現することが難しくなるアレキシサイミア(失感情症)の傾向が見られ、自己理解や他者との深い繋がりを妨げます。社会との接点が希薄になることで、自立が困難になり、親や限られた特定の人への依存が強まることもあります。話せないことへの葛藤から自己肯定感が低下し、無力感や絶望感につながるだけでなく、コミュニケーションの困難が、学業や仕事において本来持っている能力や才能を十分に発揮する機会を阻害する可能性も秘めています。
幼少期の自己防衛のための「凍りつき」が成人後も続くことで、社会との接点を失い、長期的な引きこもりや情緒不安定の根源となりかねません。むしろ、この感情コントロールの困難さや情緒不安定さこそが場面緘黙症の本質的な課題であるとも言えます。話せないという行動の裏側には、常に恐怖と不安が潜み、その代償として多くの大切なものを犠牲にしている現実があります。
だからこそ、場面緘黙症は一人で抱え込むべき問題ではありません。この「生存戦略」のメカニズムと、それに伴うトレードオフを理解し、専門家や信頼できる人々のサポートを得ながら、少しずつ安全なコミュニケーションの場を広げていくことが、その後の人生を豊かにするために不可欠なのです。
場面緘黙は自分を危険から守るための自律神経の防衛反応です、しかしこの働きが大人になっても残り社会との接点を失うことになると親への依存や引きこもりの原因となってしまいます。
